思い出すところがあったので、自分が少し前に別なところで書いた書評を載せてみる。
いましろたかし
『釣れんボーイ』について。

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コミックビーム誌での長期連載マンガの単行本。
本作品の主人公は作者いましろたかし本人を髣髴とさせる、ヒマシロタケシというマンガ家である。仕事にはそれなりに打ち込み、趣味の鮎釣りに異様に入れ込む男の日々を淡々と描く。
このマンガには、目立ったドラマがない。食傷するようなポジティブさもない。かといっていたずらな卑屈さも諦観もない。そういった部分だけで人間は日々を生きているわけではないことを読者は気付かされる。いましろたかしに描かれてみれば、そういえば私も日々の多く、こう過ごし感じていたのかもしれないと、なにやらふっと心が軽くなるようだ。
何か心にひっかかる場面は枚挙にいとまがない。
枯れているようにも見える妻との関係、でもたまに似顔絵を描いたら、彼女は驚くほど喜んでくれて、そのことに彼もまた嬉しくなったりする。
バイクで車と事故を起こして、実はとても恐ろしかったのだけど、行きつけの釣具屋のオヤジ相手にそれを笑い話にしたら、ずいぶん楽になった話。
夕暮れ、一人川面で釣り糸をたれていたら、突然淋しさにおそわれて涙ぐむ…。
マッサージの若い女の先生が気になって、突然金髪にして気を引いてみようとするも、それ以上何をするわけでもない。
そうして気がつくと八百ページもあるこのマンガを一気に読み終えてしまい、その後もことあるごとに読み返してしまう。
いましろたかしの作品にはいつも何ら生産的になれない人間ばかりが登場する。それは甘えともいえるし不真面目ともいえるだろう。だからきっと反発も呼びやすい。しかし『釣れんボーイ』は彼の作品の中で、円熟味を増してきたその表現力から、一番の普遍性をもちえたものだと思う。
苦悩ともいえぬ苦悩、煩悩ともいえぬ煩悩、それを恐ろしく軽いペンタッチで物語に置き換えていく。 いましろたかしが意味を与えた人生のもう一つの姿がここにある。
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山形浩生さんの真似ですが、自分の書いたものを後から振り返り、一言二言、その意図や今思うことを付け足してみるのも無意味ではないかと思う。
いましろたかしはマンガ読みには昔からかなりの注目を集めている作家だが、私は彼についての書評で、これはと思うものに出会ったことがない。なぜあのような登場人物たちがこんなにも魅力的なのか、それを言葉にするのは本当に難しい。唐沢なをきの「いましろさんのマンガはドカッとしたマンガ力が伝わってくるんですよね。」という言葉が私には今のところ一番よく感じが伝わってくる。つまり、その伝わってくる何かをほとんど誰も言い当てられてはいない気がするのだ。
私もまた同じ。いましろたかしが描くものはこれだ、と自分の言葉で指し示すことが出来ないのならば、そこで無理はしたくなかった。代わりに、何で「ない」のかを考えてみた。そして少しでも核心に近づきたいと努めてみたのが上の文章だったのです。
さて、いましろたかしについてもう一つ。
私はこの人の『
初期のいましろたかし』をとある友人に薦めて、酷評されたことがある。「自意識をもてあまして迷走する若者たち」の群像劇を描いたもので、八十年代バブルの背景の中、その時代への違和感をややあからさまに描いたもの。
その友人は言った。「さっぱり好きになれない。このマンガにはコミュニケーションが無い。そして、ここに出てくる登場人物は自分と向き合おうとしない、ただの子供に見える。」真摯な彼らしく、評価しないと言いきる以上は、実に多くの言葉を費やしてその理由を書いてきてくれた。
ああ、全部その通り。何も私は反論しなかった。でも、でも、それら全て認めた上で、私は、初期作品も含め、今も変わらずいましろたかしが好きだ。その理由は、上に書いた評で私には今のところ全てであるのだけれど。
ところで、最近別なところでこんなことを目にした。初期作品における描写は、本人の資質に加えて、当時の編集部からの要望もあってのことだったそうだ。
そんなことを知ってみて、上述の友人の感想を考えてみると、彼はその描写にどこか作為的なものも感じて、より反発心を煽られたのかもしれない。私自身が百回読んだって、そのような感覚を持つことや、持つ人がいることに気がつくことはなかったろう。やはり、読める友人は大切だと思った次第。
いましろたかしが悪戦苦闘しながら、マンガという表現で置き換えようとするものを、多くの人に触れてもらいたい。初期作品の荒削りな魅力も捨てがたくはある。けれど、上記の反省も踏まえて、まず手にとってもらうとすれば『釣れんボーイ』かなと今は思うから、ここに話題にしてみたのです。
2007/10/12 16:07 | レビュー | コメント(2) | トラックバック(0)
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