日本語と英語の発音、その齟齬

英語と日本語に関する興味深い記事を二つ:

- 「福留悩ます“F問題”英語で発音するとアノ禁止用語に

- 「“異常趣味”大学」じゃない!! 近畿大が英語表記の変更検討」

まず福留選手の記事は下ネタに走りすぎ。でも実に笑った。

さて、"Fukudome"と書いたら、たとえばスペイン語話者の人はかなり日本語に近い発音で「フクドメ」と読んでくれるかもしれない。でも英語ではまずそうは読んでくれないだろう。ドイツ人のミハエルさん(Michael)がマイケルさんになったりするのと同じことで、英語話者の中で"Fukudome"という綴りから「フクドメ」という発音を思い浮かべる人はきっとほとんどいない。

私は日本人の名前のアルファベット表記に関して、現行のローマ字表記にこだわりすぎることなく、ある程度自由に考えてもいいと考えている。たとえば韓国語における表記法はずいぶん英語での発音を考慮しているようだ。これまでMyungsoo(ミュンスー)さんやSeok-Hyung(ソッキュン)さんという名前の方と出会ったことがあるけれど、この綴りを英語的に素直に読めば、韓国語の原発音にかなり近いものになるらしい。私がここで()で並べたカタカナ表記よりもアルファベットを読んだ方がむしろ正確になる。

福留さんの場合は英語を話す国に乗り込むのだから、そこでの正確な発音を期して、"Fook-domay"といった新しい綴りを考えてもいいとは思う。または、英語表記において日本語の正確な発音を再現することはかなり難しいものであるのだから、"Fukudome"と書いて「フクドメ」と読んでください、と主張したってきっと問題ない。この場合は堂々としてさえいればあとはどちらでもよく、試合で残した結果がきっと名前の運命も決める。ぜひともがんばってほしい。

そしてもう一つ、こちらは私がこれはどうかなと思う近畿大学の事例。こちらは表記が"Kinki"で、この綴りは英語でも素直に読んで「キンキ」。そしてこの音感が英語においてやや特別な意味の言葉と同じくなる。だから大学の英語名を改名しよう、という動きがあるらしい。

しかし、英語でどんな意味をもつことが分かったところで、ここで何を気にする必要があるのだろう。引用記事で報告されたような“配慮”が一つ一つ、しかし着実に日本語の語彙を減らす方向に働くように思う。

たとえばタイにAssumption Universityというキリスト教系の名門大学がある。試しに"assumption"をジーニアス英和辞典を引いてみると、第六項目に「聖母マリアの被昇天」という意味があり、ここからつけられた大学名なんだろう。でも"assumption"という言葉を聞いてネイティブが第一に思い浮かべるのは、「(やや不確かな)推測、思い込み」といった意味である。

私は大学時代に英語ディベートのサークルで活動していたのだけれど、そこで参加したディベート国際大会ではいつもこの大学の名前がネタになっていた。「だってあいつらの言ってることは全部"assumption"だからな。」といった冗談がいつも繰り返される。そして、それで何も問題ない。駄洒落みたいな笑い話の一つも提供しました、というだけの話。当たり前ではあるけれど、それと大学の価値は無関係であるし、その名声は少しも揺るがない。Assumption Universityの大学名を変更しなければ!なんて動きが学生や教員からあがったという話も聞かない。。

近畿大学なんて特に、由緒ある地名からつけられた名前なのだから、こういった議論には慎重に慎重を重ねることが必要なのではないだろうか。

ところで、小飼弾さんが英語教育に関して興味深いエントリを書いている。

 → This one works! - 書評 - 3語で9割通じる英会話

日本は大国だった。そして大国ほど外国人とやりとりする必要性は少ない。その傾向は欧州ではっきりと見てとれる。隣通しなのに、デンマーク人やオランダ人の英語は、ドイツ人よりずっとうまい。

しかし、これから日本はいやがおうでも小国化する。(中略)小国化ということは外国人とやりとりせねばならぬ機会がずっと増えるということだ。そこで日本語が通用しない以上、外国語を学ぶしかない。そして外国語の中で圧倒的に強いのが英語である以上、英語を教えることそのものは実に理にかなっている。


私も全くそう思うし、だから小飼氏がここで提唱しているような早期教育も含めた英語教育の強化を支持する。しかし、だからこそこれまで以上に、同時に日本語のあり方も深く議論されるべきだと思う。教育、表記法等一つ一つより自覚的に。

私は今後数世紀に渡るような長期的な観点からの、言語の多様性、とりわけ日本語が生き残ることができるかどうかに関して、けっこう悲観的である。日本において標準語の統一が着々と進んでいるように、同時に世界的な言語統一、要するに英語による統一も急速に進んでいる。もしかしたら今後、その言語が中国語か何かにすりかわるかもしれないけれど、何かしらの世界的な「主要言語」が流布していく流れは変わらないだろう。

でも私はせめて自分が生きている間くらいは元気な日本語が生き残っていてほしいと思う。良かれ悪しかれ私の思考を形作っている言語であるから。
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