アメリカの大学について少し−ueda51さんへ

友人のueda51さんに以下のエントリの中で言及していただきました。

→ 『おもてなしの経営学」(中嶋聡:著)を読む最中に考えたこと - ueda51の日記

またその後のちょっとしたやり取りの中で、実際アメリカの大学に関わっていて感じるところからの意見はないかとリクエストをもらいました。いい機会なので、トラバしてエントリにします。まとめやすくするために、上記エントリの時系列にしたがった項目別にしました。全てその項目について「アメリカの大学学部における」私なりの雑感です。箇条書きはちょっと味気ないように自分でも思いますが、こうしないと話がいろんなところに脱線しそうなので…。このエントリにあたっては上記エントリを参照しながら読んでいただけると幸いです。

【進学率/エリート意識】

進学率があまり高くない米国における大学生のエリート意識はものすごく高い。


のっけから反論めいてしまって恐縮ですが、アメリカの大学学部の進学率はむしろ日本よりかなり高い数字となっています。日本語で見つけた記事の中ではたとえば塙武郎さんという方が以下のように述べています。

→ アメリカの大学進学率 - 塙武郎の研究室便り

現在、アメリカの大学進学率は66.7%(2004年、National Center for Education Statistics)。日本の52.3%を大きく上回っている。アメリカが大学進学率50%を初めて超えたのは1965年(50.9%)であり、その後60%を超えたのは1990年(60.1%)であった。アメリカは相当早くから大学の大衆化時代に入っている。注目すべきは、アメリカでは「大学全入時代」という議論が積極的、前向きであったことである。


ここでいう「大学」とは大学「学部」のことでしょう。ここで多くはふれませんが、アメリカの高等教育/エリート選抜を考える上で、「学部」とともに「大学院」を避けては通れず、この二つははっきり区別して考えたほうがいいことを最初に明確にしておきます。

大学学部の進学率に関してはアメリカの方が高く、とりわけ州立大学の学部教育においては、州内学生に教育の機会を提供する機関であることを第一の使命としているという話も聞いたことがあります。これは日本の大学(学部)観とはだいぶ異なりますね。ただし同じ州立大学でも大学院になるとその位置づけは全く変わってきます。

エリート意識に関しては定義の仕方がややむつかしいので、これもここでは深入りしませんが、一つ言えるとしたら、少なくとも大学院を経てPhD(=Philosophiae Doctor、博士号)やMBAを取得した人は高等教育を受け、それをしっかりとこなした専門家としての強い自負心を皆おしなべて抱いています。これは良い意味でのエリート意識の一つと言うことはできると思います。

【コネ/人脈】

「コネ」と聞くと、日本ではいい印象は持たれませんが、あまりそういった印象がないアメリカでこそ、コネを求める学生がいて、そうした人間関係を重視することもあるってことを押さえているといいかもしれないですね。

コネという言葉は日本語ではやや多義的で、しばしばネガティブな意味にも用いますね。「就職の際に親戚に口を利いてもらった」とか「取引先の計らいで」などなど「血縁」や「地縁」などの概念を多く含んだ使われ方をします。ueda51さんのいう「コネと聞くと日本ではいい印象はもたれませんが」というのはこのあたりの用例を想定してのことだと思います。

孫引きにすぎないのでずれているかもしれませんが、引用された中嶋悟さんが用いた意味は、上記の要素を排した「個人と個人の関係において、その専門的知識や実務能力を評価し合ったつながり」という意味ではないかと思います。この文脈では私なりにいえば「人脈」という言葉を使います。この意味でアメリカは日本をはるかに上回る「人脈重視の社会」です。さらに日本と比較して私がアメリカの人脈の特徴をいうならそれは「浅く広い」ものです。

たとえば私の専攻分野である生物科学研究の話を引き合いに出せば、一度でも学会で、ある研究テーマを熱心に議論しあって良い印象を与えたなら、それだけで互いにかなりの信頼を勝ち取ることができます。そのまま共同研究の話に展開することなどもめずらしくありません。ただし、その後お互いの研究上の関心や事情が折り合わなくなったら、日本人からみたら相当あっさりとその件に関する関係を(多くの場合は良好に)解消します。そういったやり取りのなかで浅く広い人脈をどんどん張り巡らしていくのがアメリカの社会の特徴といえます。

技術やノウハウなどの点で、自分ができないことは彼らはすぐにできる人を見つけ出して協力します。また優秀な人ほど「自分一人ではできることなどたかがしれている」という言葉をよく口にします。この点は私はアメリカ人が最も強みをもつ点だと思っています。どこかで「MBAの課程で学ぶ目的の五十パーセントは人脈作りである」と聞いたことがありますが、至極納得の言葉です。それもこういった風土あってのことでもあります。

またueda51さんが引いたホームパーティーの話も、これは確かにアメリカの人間関係構築において日常的に行われるものですが、アメリカ人の上司の多くはむしろ積極的に人を呼び、率先して人脈作りに励むのが多く見られる光景です。

【大学での専攻選び】

もしかしたらこの点は、入試の段階で専攻を決定する日本の多くの大学生にとっては理解のむつかしいところかもしれません。大学入学の段階で、学生がキャリアパスにおいてどの程度の目的意識を持ちえているかに関しては日米でおそらく大差はなく、五十歩百歩なのではないかと思います。ただ確かにその後が異なるのです。

まずueda51さんは学部時代に「哲学→経済学→数学、情報→経営学」という学問的な変遷をたどったとのことですが、実はこういった話はアメリカの学部生にもさほど珍しい話ではありません。余談ながらなかなかにICU的ですね。実際、とても理にかなった経路だと思います。

さて話を戻すと、現に私がこちらで縁あって仲良くなった学部四年生のR君はもともと親のすすめもあってMedical School(医科大学院)への進学を目指してこちらVanderbiltの学部に進学しました。しかし一年生のときにいくつか取った自然科学系の科目が肌に合わず、彼はその後、社会科学へと大きく専攻を変えました。現在はフランス史を専攻しており、かなり優秀なようで来年からは奨学金を受けて大学院へ進学するそうです。彼のような進路にも対応できるカリキュラムの柔軟性があるのもこの大学を含めた多くのアメリカの学部教育の特徴です。

一つ前のエントリで、アメリカでは自分探しを宿命付けられていると述べましたが、それは学部教育においてもいえます。常に選択肢にさらされ続け、その上で専攻を絞り込んでいく。それは入学の時点のみに限らず、在学期間中ずっと熟考に熟考を重ね、もちろん人生設計の一部として専門分野を選んでいきます。おそらくは中嶋悟さんもこのあたりを想定しながら述べているのではないかと思います。

【ビジネスのことがわかる技術者をどう育てるか】

最後の項目です。ここでは大学を離れて少々大きな話をしてしまいますが、西欧文化圏では「いろいろなことを知っている」ことはそれだけで美徳であるという風土があります。また知的職業に関わる者としての条件でもあります。これは近代教養という概念を生んだ文化であり、それが今もかなりの程度で息づいているからでもあるでしょう。「ビジネスのことがわかる技術者」または「生物科学に精通した経営者」といった存在に価値を見出し、また育てていくためには、この教養の価値を認める土壌なしにはなかなかむつかしいと私は感じています。

なぜか。「○と△を両方極めたスペシャリスト」と一口に言っても、実際にはどちらかに得意分野は偏るものでしょうし、その得意分野に関しても「その道〜十年」といった人には経験という点で劣る点がないとは言えない場合が多い。日本ではそのような点がまず指摘されることが多いのではないかと思います。また、たとえば、日本では「器用貧乏」であったり「多芸は無芸」といった言葉にあらわされる価値観はとても大きな存在感をもっています。それよりは何かたった一つに精通したスペシャリストとなって大成することがよしとされる。そして、そのような気風が技術立国日本の人材を育ててきたという側面は見逃せないでしょう。

しかし、専門のタコツボ化の問題は日本でも指摘されて久しく、今後、人や物、情報がますます忙しく動き回る時代においてはある程度の路線変更は急務であると思います。けれどそれはそう簡単なことではなく、日本のこれまでの知的風土そのものをかなり抜本的に変える必要があるのではないかと思っています。私もビジネスのことがわかる技術者が大いに育ってほしいと思っています。しかしそのためには、語弊をおそれずに言えば「部外者が口を出す」ことに価値を見出していけるかどうかにかかっている、そんな風にも言えるように私は思います。「その道〜十年」の人から見たらどんな人でも素人/部外者です。しかし語ることをやめてしまってはその先がない。

ここで小飼弾さんのこんな言葉を紹介したいと思います。エントリ自体はかなり異なる対象を論じたものですが、深いところで通じるものがあると思います。

 → 我々全員の知的生産性を10桁上げる方法 − 404 Blog Not Found

「原典嫁」というのは過剰な倹約の勧めなのだ。

徹底的に考え抜くのは楽しいことだし、衝突と再発明を繰り返していれば、人はいやでもそうなっていく。しかし考え抜くことそのものは、知的な行為であっても知的生産ではないのである。誰にも語られぬ熟考は、はっきり言ってしまえばどこにも出荷されない製品を、ただ黙々と作り続ける工場にも等しい。

まずは語り抜けるようになろう。


さらに言えば語る人の話に「耳を傾ける」ことに大きな価値を見出していこうと私は言いたいのです。そのような中から、二束のわらじを恐れずに履こうとする者があらわれる。そしてそこから複数分野のスペシャリストや横断的な職業人を生み育てることができるのではないかというのが私の考えです。

だからueda51さんのキャリアの話を聞いたときは新鮮な驚きだったし、応援したいとも強く思っています。というより、ある意味似たようなキャリアを志向する同士といったほうがいいかも(笑)。



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  • 自分探しとアメリカと

    SNSで大学院生の友人の日記を読んでいたら、「同世代の友人と話してみると想像以上にそれぞれ進路について悩んでいた」、といった話が書かれていました。そこについていたコメントにこんなものがあって印象的でした。
    悩むのはいいこと。俺も一昨年の今頃は相当悩んでた。でも悩んだ分だけ決めた進路に自信が持てている(大意)

    実感がこもっていて実に良い。

    さて、当地アメリカに住んでいて、社会のあり方として個人的にうらやましいと思うことの一つが、進路の選択肢の多様さと、それをどんどん増やしていこうという雰囲気です。

    たとえば、私の専門である生物科学系を例にとると、こちらでは生物系を専攻した学部生の優秀な人たちは軒並みMedical School(医科大学院)に進学します。日米の法曹養成における法科大学院のように、医学教育が大学院から提供されるからです。また、生物系の優秀な人間の大半が医学を志すのは、世界中あらゆる国で同じことであり、アメリカでも例外ではないという話でもあります。また、アメリカで医者になると、平均年収が少なくとも二千万円ほどと言われ、高ステータスかつ高収入の職業でもあります。やりがいもあるでしょう。学生をひきつけるのは当然の話。

    ところがですね。ここアメリカにもある程度の割合で必ずいるんですよ、「研究」なんてものを志す人間が。「私はMed Schoolに行かずに研究をやりにきたんだ」という自負がものすごく強い。もちろんそこに至る過程で散々悩んだのだろうから、その上で決めた進路へのモチベーションが異様に高いのです。そしてアメリカにおける生物系博士課程の大学院というのはそういう人間の巣窟なのです。(*)

    エキセントリックな人もたくさん見てきました。様々な意味をこめて、「この人は研究者になりたくてなったのではなく、研究者にしかなれなかった」というタイプの人。発生研究で有名なUCバークレーのMichael Levine教授なんて典型例でしょうね。

    日本のように十八歳で決めるか、二十一、二歳で決めるかの違いでしかない、とも言えるけれど、二十歳前後のこの数年の年齢差はとても大きい。また、少なからず医学、生物学の世界の現場に出てから、改めて進路を問われるわけだから、選択の重みもまったく変わってきます。

    こういう選択肢にさらされて選んでいくわけだから、私の好みの言葉で言うと、自分の立ち居地への「覚悟」や「矜持」といったものを醸成しやすい環境であるように見えるのです。また、そこで何かを決めたからといって、その後の人生にすっかり見通しがつくわけでもない。皆、多かれ少なかれ変わり続ける。好みはあるでしょうが、ここはそういった文化の国です。

    ところで、小飼弾さんが速水健朗『自分探しが止まらない』という本の書評でこんな言葉を引用していました。
    自分探しは日本の若者だけではなく、先進国の若者たちを覆う病なのだ。

    そうなんですよね。私なんて特に自分探しの権化のような二十代を送ってきましたし。

    この意味ではアメリカのあり方はとりわけ「自分探し君大量生産装置」でもあります。アメリカに生きているのがつらそうなアメリカ人にも何人かあって来ました。そりゃ一面ではつらいのは当然ですよ。「お前はどう生きていきたいんだ。何かを選んだとして、それは本当に望むことなのか。」ということをいちいち問われ続けるんだから。

    ただ私としては、自分探し人間を生み出すのはもはや現代の宿命と見据えて、その上でどのような社会を作っていくかを考えたい。十代、二十代の間くらいは散々悩ませればいい。その上で強靭な人生観を養う。ここに活路を見出すのは一手なのではないか。アメリカのあり方は、あくまでその一例として、なかなか高水準のものを作りつつあるように思います。

    -----------------

    (*)

    以上の話は分かりやすくするために、単純化しすぎているきらいもあります。研究か臨床かという問いがすでにこちらではやや不毛なものです。

    生物系博士号(PhD)を取得した後、医学博士号(MD)を取りに新たに学び直すなんて珍しくありませんし、その逆も然り。いや、むしろどちらも追求したいという優秀かつ欲張りな学生もとても多いので、私の現在の大学院にもMD・PhDコースという八ヵ年の大学院課程も作られています。

     → 参考:the Medical Scientist Training Program (MSTP) at the Vanderbilt University School of Medicineのウェブサイト
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