ふとしたことでafter game overというブログにおける『
ある個人史の終焉』というエントリが目に留まった。ブログ主とその妻がいくつかの困難を乗り越えて子を授かったことに関するエッセイ。
子を持つことがなぜ「個人史の終焉」なのか。ぜひ当該エントリを読んでみてください。そのタイトルにおける負の響きの見事な転換。エントリに寄せられた多くの声と同様、私も強い感動を抱いた。
しかし、そのブログ自体はすでに閉鎖されてしまい、そのエントリだけがブックマークされてまだウェブ上に残っている。理由は、「ある個人史」が必要以上に注目を集めすぎてしまったことのブログ主のとまどいからか、もう一つには、この文章がこんな批判を呼んだからか―「このブログ主は、今もって子を生めない男女のことを考えたことはあるのか」との。
これはウェブ上で議論を呼んだらしく、その顛末について、『地を這う難破船』sk-44さんが「
声を上げ続けること、声を言葉に換えること」とそれに続く「
マジョリティの側の度量(書き落としたこと)」にて卓見を述べている。彼は「子を生めない男女のことをもっと意識して文章を書くべきだ」とするとある批判者のことを半ば擁護する形でこう述べる。
(子を持てない独身者のある代表としての)当事者として、声を上げることは、自己の存在を主張することは何より肝要なこと。時に誤解に晒され、引かれ顰蹙され悪罵をなげつけれられることを前提して、そのうえで、他人に文句を容易には言わせない文を書く。届かなくとも。縁なき人には縁なきままであっても。
私は強く同意する。このような批判もまた同時に必要とされるものであるから。
その上で、やはり『ある個人史の終焉』という幸福の言葉も等しく強く喜びたい。なぜならその言葉が強い感動を呼ぶことは紛れもない真実であるし、これに救われた人や勇気を与えられたもまた多いと思うからである。
ところで、評論家・呉智英にこんな言葉がある。
もとよりあらゆる物書きは罪深い存在である。一枚の原稿を書くたびに、その陰で十人の人間が死んでいくようなおぞましさを引き受けることなしには、物書きにはなれはしない。
『現代マンガの全体像』より
一介のブロガーに過ぎない私ですら、ウェブ上で文章を綴るようになって、少しずつこの意味が分かりかけてきた。否。それは不特定多数へ向けた発言には留まらない。人間関係におけるあらゆる言葉は人を傷つけうる。あらゆる発言は、今回リンクしたような幸福の言葉すらも含めた発言は、それは必ず誰かを傷つける。
けれど、その上で多様な言葉が世に出てくるべきだと思う。その意図が明確であるならば、人を傷つけることを自覚しそれでも発せられたものならば。それは誰かを傷つけるものであるが、誰かを救うものになり得るし、何かに光を照らすものであり得るから。
2007/11/22 13:42 | ナッシュヴィル/日常 | コメント(6) | トラックバック(0)
|
|