私が学部生だった頃、失恋を唄ったMr.Childrenの『Over』がいかに名曲であるかを力説してくれたのは、大学サークルの先輩Nさんだった。
今となれば
顔のわりに小さな胸や
少し鼻にかかるその声も
数え上げりゃ きりがないんだよ
今となれば
嘘のつけない大きな声や
家事に向かない荒れた手のひらも
この、やたらと具体的、また些細な指摘が、むしろだからこそ、強烈なリアリティでもって普遍的な共感を呼ぶんだよ、というNさんの指摘に、なるほどなと納得したものだった。その詩の中での具体的な部分に、聞き手は自分のケースを入れ替えてあてはめるのだろう。
また、友人Aさん、「人との別れの何がつらいって、自分の部屋にあるほとんどの物に、別れた人の色がついていることなんだよね。あの人と無関係な物を探すことの方が難しくってさ。」
その通りだと思った。Aさんのこの言葉は今でも自分の中でよく反芻する。そして、いかに身の回りに、現在ですら過去の人との日々が詰まった物にあふれているかを思う。だから、たとえば相手に直接もらった物だけを捨てたりしてもあまり意味がない。自分の持ち物のほとんどの中に、何かしら共有した記憶が込められている。
そしてなぜなら、それは物だけではないから。人差し指に指輪を通すとき。ジャズ・エレクトロニカを聴いているとき。野菜の皮をむくときに、包丁ではなくピーラーを使うとき。すでに私の生活の当たり前になっているものごと、そういえば、この良さを教えてくれたのはあの人だったっけ、といちいち思い返す。それはまたきっと人間関係全てに言えること。生活の細部にこそ記憶の糸口なり、ある意味での関係の本質的な部分が宿るのだと思う。
ま、そのように人は人の影響を受けていくという話でもある。
思えば、この夏に日本で久しぶりにお会いした先輩ご夫婦(新婚さん)の二人が随分と雰囲気が似通っていたことが印象的だった。もともと近い感じを持っていた方々だったけれど、さらにもっともっと。
いいなぁ、素敵だなぁ、とそこに私は一番の憧れを抱いたのでありました。
2007/09/17 15:01 | ナッシュヴィル/日常 | コメント(2) | トラックバック(0)
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